真夜中のオーケストラ

田舎の家で寝るときは、必ずと言っていいほどいつも熟睡できます。

小さな頃の環境が、自分自身の身体に今でも染み渡っているからでしょうか。一番落ち着けるような気がします。

特にこの季節のサラウンド効果は最高です。まずはカエルが賑やかに歌い始めると、いろいろな虫があちこちから演奏を開始します。360度のあらゆる方向から、さまざまな鳴き声が重なっていきます。

鳥の歌が聞こえてくると、すでに朝が始まっていることがわかります。春の風物詩であるウグイスが、今も元気に鳴いています。

先日、ホタルを見ました。

夜の暗闇の中を、いくつかの光が点いたり消えたりしてゆっくりと移動していきます。

私の近くまで来ていた蛍がいたので、手の中に入れてみたら、見事な緑の蛍光色が尾の部分で点滅していました。

 

写真を撮ろうと片手でスマホを取り出そうとした瞬間、手の中にいた蛍がさっと舞い上がり、何処かへ飛んで行きました。

初夏らしいものに、久しぶりに触れたような気がします。

TOKYO2020

東京五輪がいよいよ迫ってきました。開催すべき、中止すべき、と未だに意見が割れているようですが、個人的には開催すべき、と思っています。

 

確かに新型コロナウイルスの怖さを体験していませんので浅はかな意見かもしれませんが、東京が、日本が自ら候補地に立候補した以上、そもそも日本側から「中止する」という態度を表明すべきではない、と思っていました。

 

決定権はIOC側にあります。このような困難な状況にあってこそ、どうやって前に進んでいくかが重要だと思います。最後まで開催するための努力を続け、その東京側、日本側の取り組みの成果に対し、最終的にはIOCが判断すればよいことです。

 

昨日、百メートル走で日本新記録がでました。個人的には東京五輪で見られるはずの、アスリートの感動的な姿に期待したいと思っています。

短編小説と漫画

スマホで本を読む習慣がすっかり定着しました。スマホで読むことのメリットの一つに「重い本を持ち歩かなくてもよい」ということが挙げられます。そのため、当初は長編小説を読んでいたのですが、最近は短編小説も結構読んでいます。

 

短編小説だと細切れの時間を利用するのにちょうどよいですし、最後まで読み終えることがそれほど苦にはなりませんので、自分自身にあまりストレスをかけることなく読書を楽しむことができます。

 

一方で、マンガをスマホで一度読んだのですが、老眼にはかなりきついことがわかりました。ページを拡大して読むこと自体はできますが、ページごとのコマ割りにも当然ながら作者の意図があるでしょうし、そのあたりの感覚的な部分を堪能することができませんでした。今後、一コマずつ切り離して読むことができるようになれば老眼にも少しは優しくなると思うのですが…。

 

いずれにせよ、スマホによって細切れ時間を読書に活用することが容易となり、読書量自体も増えています。これからさらに老眼にも優しい環境が整っていくことを期待したいと思います。

「労働に従事しない者」

松本清張の小説を読んでいます。数十年前に書かれたものなのにとても読みやすいし、また、ストーリー展開がとにかく面白い。最近では「紐」を読んだのですが、半世紀以上も前にこんなにも本格的な推理小説が書かれていたのかと、只々驚かされました。

 

また、今読んでも新鮮さが際立つ小説だからこそ、その時代を浮き彫りにする言葉がいくつかありました。例えば「ハイカラ」。意味はわかりますが、「そう言えば最近は使わなくなったな」と感じました。「テンピ」に至っては、初めて触れた言葉であり、検索してその意味を知りました(ちなみに、調理器具のオーブンのこと)。「文化的」という言葉は、何となく意味は理解できるような気がしますが、実際のところはその時代を生きていない限り、本当のニュアンスを把握することは不可能なのかもしれません。

 

「紐」という小説の中で特に注目したのが以下の文言です。

「被害者は労働に従事しない者、たとえば、会社員か、商人」

 

令和の時代を生きる私たちの感覚からすれば、「え、会社員や商人って、労働に従事してないことになっているの?」と不思議に思います。これこそ、この時代を生きていないとわからない文言なのでしょう。

 

例えば、今の私たちは「会社員」という言葉を当たり前のように使用していますが、50年後の未来を生きる人たちからすれば「会社員って何?」と思われているかもしれません。

 

私にとって新鮮なストーリー展開の中に、その時代の肌触りが散りばめられていて、その対比がとても面白い小説でした。

天才の余白

藤井聡太二冠の将棋に対するユニークな考え方は「自分自身に余白がどれだけあるか」ということだと思います。

 

すでに10代で「余白」について向き合えること自体、すごいことだと思います。

 

この「余白」という意味ですが、藤井二冠がどのように捉えているか実際のところはわかりませんが、私自身は以下のように考えます。

 

将棋そのものの奥深さを測り知ることはできないとしても、自分自身の生涯の中でどれだけその一端に触れることができるか。そのために、自分自身が取り組むべきことをすべて取り組んでいるか。まだまだ今の時点で取り組むべきことがたくさんあるのではないか。

 

この「今の時点」で自分自身が取り組むべき課題のことを、「余白」と表現されているのではないかと思います。

 

翻ってその考え方を私自身に当てはめてみると、余白だらけでほぼ真っ白な状態であることを痛感します。残されたノートのページはそれほどないはずです。とにかく残されたページを埋めるべく、書き綴っていきたいと思います。