「愛情」や「努力」という言葉

最近、政治の現場で「愛情」という言葉を聞いて、どうも違和感があるなあ、と感じていました。

それがなぜなのか、うまく説明する言葉を持っていなかったのですが、今日電車の中で読んでいた本の中に、偶然にも端的に書いてある言葉がありました。


「『愛』や『愛情』という言葉は、『ファイナル・ワード』である」


もちろん、恋愛やスポーツなどで精神面を重視する場面においては「ファイナル・ワード」にならないケースもあると思いますが、具体的な内容や工夫が求められる政治や仕事の現場においては、やっぱり「ファイナル・ワード」になってしまうことがほとんどではないでしょか。

映画「男はつらいよ」の寅さんの台詞でよく使われていた「それを言っちゃあ、おしまいよ」ということでしょうか。


それで思い出したのですが、今まで自分が仕事の現場で使っていた「努力します」「がんばります」という言葉の多くも、「ファイナル・ワード」であったと反省します。「この言葉を言ったのだから、これ以上つっこまないで」という気持ちがどこかにあったように思います。


具体的にどのような行動をしていくのか、どのような工夫をしていくのか、仕事の現場では、そのことから目を背けないように悪戦苦闘していかなければいけませんね。