最近実家に帰って近所の人たちと顔を合わせたとき、あるおばあさんから「あんた、将棋の兄ちゃんと違うの?」と言われました。
小学校高学年のとき、私は将棋にはまっていましたが、失礼ながら、今までにお会いしたことがあったのかどうかも忘れていたおばあさんからそのように呼ばれたので、ちょっとびっくりしてしまいました。
当時は単純に将棋が好きで、将棋の本を読んだり、一人で将棋の駒を並べてあれこれ考えたりしていました。でも、中学校に入学してから、すっかり「将棋熱」は覚めてしまいました。将棋のプロに憧れて夢中になっていたのに、なぜこんなに簡単に覚めてしまったのでしょうか。
その理由として、中学に入ると、少し世界が広がったことが挙げられます。いろいろな友だちと遊ぶのが楽しかったし、野球部で体を動かすのも楽しかった。一人で81マスの盤面の世界をにらみ続けることより、友だち同士でいろいろなコミュニケーションを図ることのほうが刺激的だった。
もう一つの理由として、中学に入学する前、ある将棋の雑誌を読んだとき、衝撃的なことが書いてあったことが挙げられます。埼玉の羽生という少年が、2枚落ち(飛車・角抜き)で当時のトッププロと対戦し、プロもびっくりするほど創造的で、確かな差し手の連続で、まるで横綱相撲のように押し切って勝ってしまったとありました。
アマチュアの棋士と何枚もハンディをもらって、それでもなかなか勝てない私と、羽生少年との間には、小学生でも十分わかるくらい、実力の差が歴然としていました。自分の実力を痛いほど思い知らされ、それまで夢中になっていただけに、反動が大きかったのかもしれません。
その羽生少年が、今の「羽生名人」で、まさに将棋界をリードしている存在の人であることが、本当にうれしく思います。と同時に、「羽生名人」と比較してしまった当時の私は、本当に何もわかっていなかったなあと反省します。
やっぱり、他人と比較してはいけないのでしょうね。他人の存在を参考にすることはあっても、成長は、他人との比較ではなく、過去の自分との比較において成し遂げていくものだということでしょうか。
最近は、将棋を指したいとは思いませんが、プロの将棋を見ることは好きで、たまに日曜の朝、テレビで観戦することがあります。また、将棋の技術書には興味がなくなってしまいましたが、羽生さんや谷川さんが書いた啓蒙書は喜んで読んでいます。どこかにまだ、憧れの気持ちがあるのかもしれません。