深い希望

ある先生から聞いた言葉です。

「地球環境問題を論じるとき、『サステイナビリティ』(持続可能性)という言葉をよく耳にします。持続可能な社会を実現していくために、食糧の問題、水の問題、エネルギーの問題などが論じられます。果たして、持続可能な社会とは、食糧や水、エネルギーなどの条件さえ整えば実現できるものなのでしょうか。そうではなく、『希望』のある社会こそ、本当に持続可能な社会と言えるのではないでしょうか」


社会を持続させていくための根本を「希望」だとして、社会の「サステイナビリティ」に深く貢献している「深い希望」とも言うべきものに焦点を当てるとすれば、それは一体どのようなものなのでしょうか。


私なりに考えて、「100メートル走」をイメージしました。「100メートル走」のような短距離走では、「100メートル」だけを全力疾走しようとすれば、最後のところでペースダウンしてしまいます。つまり、「100メートルの間」を変わらず全力疾走していくためには、110メートル、120メートルあたりを見据え、そこまで全力疾走していくことが求められます。

「深い希望」についても、同じことが言えるような気がします。「自分の生きている時間」だけに希望を見出そうとすると、最後のほうはペースダウンしてしまうのかもしれません。そうではなく、「自分の生きている時間」よりもさらにその先を見据えて全力疾走することに、「深い希望」が存在しているのかもしれません。


そうやって考えていくと、私たちのまわりには、たくさんの「深い希望」が存在していることに気づかされます。

私の田舎には、桜の木がたくさん植えられています。桜の大木や古木を植えた人は、もうこの世にはいらっしゃらないでしょうし、名前も残されていません。でも、毎年春になると、多くの人を惹きつける満開の花が咲き誇ります。


そして自分自身、どんなに「ダメな自分」「冴えない自分」ぶって生きていたとしても、そうやって受け継がれてきた「深い希望」の一つなのかもしれませんね。