六中観

「六中観」として、次の言葉があるそうです。

「死中、活有り」
本当に行き詰ってしまい、どうしようもないと思うときにこそ、道は開けてくる、死んだ気になれば、開けない道はない、という意味だそうです。私自身がもし「道が開けない」と悩んでいるとしたら、それはまだ「死中」に生きていないということでしょうか。想像力を働かせることで、いつでも「死中」に生きることができると思います。私自身、そのような張り詰めた世界から逃げないようにするために、「今こそ死中」という心構えを持っていきたいと思います。

「苦中、楽有り」
苦楽は人それぞれが感じるものであり、苦の中に楽があり、楽の中に苦がある、という意味だそうです。「苦中」にあっては、「楽」を求めて逃げ出したくなることがありますが、逆にとことん「苦中」に向き合うことで、本当の「楽」を見出していくことができるようになる、ということでしょうか。

「忙中、閑有り」
忙しいときにでも時間を見出し、勉強しなければいけない、暇になってから勉強しようと思っていたら、一生できるものではない、という意味だそうです。この言葉は、ときどき目にします。それだけ、現代の人は「忙中」に生きているということでしょうか。ある偉人は、お酒を飲んだ夜は、そのまま寝てしまうのではなく、酩酊しながらも読書することを自らに課したそうです。気持ちの持ちようで、時間を作り出し、時間を活かしていく必要がありそうです。

「壺中(こちゅう)、天有り」
俗世間の中で生活しているときにも、別世界を自分の中に持ち、それを深めていかなければいけない、という意味だそうです。世間の荒波に流されるのではなく、世間の中で自分を持ってしっかり生きていくためにも、自分と対話する世界を深めていく必要がある、ということでしょうか。

「意中、人有り」
私淑する人や一緒に仕事をしたいと思う人、または他人に自信を持って推薦できる人を自分の中に持っているとするなら、それらの人と直接会うことはなくても、それらの人と日々交流を深めながら生きていくことができる、という意味だそうです。私は大学時代、自分を磨いてくれるような「師匠」がほしいと思ったことがあります。でも、その当時、「師匠」を持てずに学生時代を終えてしまったのは、該当者がいなかったからではなく、自分の心が「師匠」を迎える準備ができていなかったからだと反省します。

「腹中、書有り」
腹の中の書、つまり座右の銘や愛読書があると、自分自身の信念や哲学を持ち続けることができる、という意味だそうです。学生のときは「哲学」というと、小難しいものの代名詞くらいに思っていました。でも今では、「自分の哲学」を持っていないと、簡単に自分自身が流されてしまう、ということを日々実感します。


「六中観」は、非常にリズミカルで覚えやすい言葉です。先日見たテレビでは、「江戸時代には7歳くらいの子供に、論語を音読させていた」と言っていました。論語に限らず、「六中観」のような「どのように生きていくべきか」を教え諭す人類の叡智の詰まった言葉は、意味がよくわからなくても、体に刻み込ませることで、将来に生きてくる、ということがあるように思います。

私は最近まで、そのような「叡智の詰まった言葉」をほとんど刻み込まずに生きてきました。やっぱり日々勉強していかなければいけないようです。