本の多様性

ダイバーシティ」という言葉を最近よく耳にします。「多様性」という意味で、民族の多様性、性別の多様性(性別においても男と女の2つだけに割り切れるものではないようです)、帰属意識の多様性など、さまざまな「ダイバーシティ」を受け入れていくことが大切だという文脈で語られることが多いように思います。


この「ダイバーシティ」ということでいうと、「本の多様性」というものを最近考えさせられました。


最近、思わず背筋をぴんと伸ばしたくなるような偉人の本を読みました。己の精神性を高めていくにはどうすればよいか、どのように生きていくべきかなど、本当に大切だと思えるようなことがたくさん書いてありました。もちろん、すべてを理解できたわけではないのですが、その本を読んだあとは、まるで自分自身もその偉人の精神レベルまで高まったかのような錯覚を味わうことができました。


問題はそのあとに起こりました。その後、買っておいてまだ読んでいない本をパラパラとめくってみたのですが、どれも内容が薄っぺらく思えて仕方がありませんでした。そのような状態でそれらの本を読んでも、ほとんど何も吸収できず、時間の無駄遣いになってしまうような気がしました。

「どうして、どの本も薄っぺらく感じてしまうのだろう?」と自問自答していたとき、「ダイバーシティ」という言葉が浮かびました。私には、「多様性を受け入れる」という懐の深さがあるのだろうか、そのような覚悟を持っているのだろうか、と振り返ってみました。

もちろん、今までそのようなことをほとんど意識したことはありませんでしたので、少なくとも「覚悟」は持っていなかったと反省する必要がありそうです。


自分自身、世の中の「多様性」に対して、偏見はないつもりでいますが、そもそも自分の世界に向かうことが多いような気がしますので、「多様性」の存在、その内容、その問題点等に光を当てようとすることすら、今まであまりしてこなかったというべきなのかもしれません。


「本の多様性」ということについても、今までほとんど意識していませんでした。どちらかというと、自分自身の直感に頼って、「今日はこの本を読もう」としてきたように思います。

「本の多様性」を認識することで、どのような本を読むべきか、自分でコントロールすることができるようになっていくのではないでしょうか。「今の自分にはかなり背伸びすることになるけど、チャレンジしてみたい教養本」「少し気軽な気分になって、それでも教養を身に付けたい本」「純粋に仕事のスキルを高めたい本」「楽しむことが目的だけど、何か自分の生活に役立てることを見つけたい本」など、いろいろな目的を見出して、その日はどの本を読もうかと考え、また、トータルでどのような按分にしていこうか考えることは、読書の楽しみの大切な一つなのかもしれません。


そのような前提でもう一度「薄っぺらく思えて仕方なかった本」をパラパラとめくってみると、以前よりも興味を持つことができました。