「卑屈」と「謙虚」の違い

「逆境のときにおいても卑屈になってはいけない、なぜなら『卑屈』は、『傲慢』と同じ根から生えてくるからだ」という言葉を聞いた記憶があります。また、「逆境のときに『卑屈』になる人間は、順境のときに『傲慢』になる人間だ」と聞いた記憶もあり、自分自身、「傲慢な人間になりたくなければ、卑屈な人間になってはいけない」と言い聞かせてきました。


では、なぜ「卑屈」と「傲慢」は「同じ根」から生えてくるのでしょうか。それは、「自分に向けられる」か「他人に向けられる」かの違いはあるにせよ、その心根が「切り捨てる」「切り離す」というもので一致しているからではないかと思います。

例えば「卑屈」においては、「自分なんて価値のない人間だ」と、自分自身を「切り捨て」ています。一方、「傲慢」においては、「アイツは価値のない人間だ」と、他人を「切り捨て」ています。

そのため、「卑屈」や「傲慢」からは、自分や他人との「断絶化」が加速され、その人自身が成長できる機会を失していると想定されます。


一方、「卑屈」に似て非なるものとして、「謙虚」があります。「卑屈」も「謙虚」も「自分に向けられる」という一部分においては共通しているのかもしれませんが、その心根は全く異なるようです。

「謙虚」は、「尊重する」「内包する」といったものではないかと思います。自分と他人を「尊重」し、自分と他人を「内包」して、その断絶をなくしていくようなものでしょうか。

「自分には無限の可能性がある、だからこそ、他人を尊重し、他人から学ぶべきことは学んでいきたい」という心持ちから発せられるものであると考えられます。

そのため、「謙虚」からは、自分や他人との「同一化」が加速され、その人自身が成長できる機会を有効活用していると想定されます。


自分自身、「謙譲の文化」を履き違えて「卑屈」にならないように戒め、いつも「謙虚」に生きていきたいと思います。