三十にして立つ

論語の中に「三十にして立つ」という言葉がありますが、最近読んだ本の中には「三十にして立つことができない人間では仕方がない」ということが書いてありました。


三十をとっくに過ぎて、未だ「立つ」ということを把握できない私にとっては、非常に手厳しい言葉に聞こえました。最近は四十が目の前に迫っていますので、「四十にして惑わず」という言葉を意識することが多かったのですが、そもそも「三十にして立つ」、あるいはもっと前の「十有五にして学に志す」とはどういうことなのか、そのことを自問自答しないで、「四十にして惑わず」の意味が把握できるはずもない、ということでしょうか。


「学に志す」ということは、知識や技術の習得だけではなく、「自分自身、いかに生きるべきか」を志すために勉強する、というように今の私は理解しています。「勉強する」ということは、本を読むだけでなく、そのような意識を持って毎日の生活を送る、ということだと思っています。

では、「立つ」とは、どのように理解すべきでしょうか。「自立する」という言葉が浮かびますが、「自立」とはどういう状態なのか、今まであまり意識していなかったと反省します。


「自立」とは、自分自身の仕事を定め、「自分の仕事」と覚悟を定め、責任感を持って打ち込んでいく、ということでしょうか。私自身、あまりうまく言えませんので、きちんと理解していないのでしょう。

ただ、最近反省したことで、「起業した後でさえ、多くの友人・知人に依存していた」ということが挙げられます。「自分一人では何もできない」ということを言い訳にして、誰かしらに依存することを常態化していたのではないだろうか、と反省します。そうではなくて、「自分にできないこと」を明確化し、ではどのような人に依頼すれば実現できるか、どのような関係性を構築していけばよいかなどを把握し、実行していくことが「自立」ということでしょうか。


「四十にして惑わず」の前にも、いろいろと反省しなければいけないことが多いようです。今日から師走。年の瀬を感じながら、悔いのない一年にしていきたいと思います。