「わかっている」ということ

日常会話の中でも「あの人はわかっているようだけど、あの人はまだわかっていないようだ」といったように、「わかっている」か「わかっていない」かがときどき問題になります。では、「わかっている」ということと「わかっていない」ということの違いは何なのでしょうか。


単純な暗記問題であれば、そのボーダーラインは「知っている」か「知っていない」で明確に区切ることができます。しかしながら、例えば「リーダーの役割とは何か」といったように、答えが一つではない問題となると、そう簡単にはボーダーラインを設けることはできなさそうです。


先日、ある人は「リーダーの役割とは何か」という質問に対し、「何をすべきかがわかっていて、自分で決断できる人」と答えていました。その答えから、「答えが一つではない問題」に対し、「わかっている」のか「わかっていない」のかのボーダーラインを設定する上で、大切な視点が一つあることを理解しました。


その視点とは、「自分の言葉で、しかも相手に理解していただけるような簡単な言葉で、さらにはたった一言で、答えることができるかどうか」ということにあると思います。


簡単に言うと、「ズバっと答えることができるかどうか」ということでしょうか。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という言葉があります。それが唯一の正解ではないとしても、その人にとっての「武士道とは何か」を単純明快に答えているわけですから、その人は「すでにわかっている」ということになるのでしょうか。


そこで、先日たまたまニュース記事などを見ていて浮かんだ質問があります。それは、「政治家とは何か」という質問です。これも答えは一つではありません。そのとき、私は次のように答えを考えました。

「管轄する市民が、よりよい生き方ができるように決断していく人」


これは私の個人的な考え方でしかありませんが、「政治家とは何か」という質問に対する答えの中に、大切な二つの視点があるのではないかと思います。一つが「管轄する市民全体のことを常に意識すること」であり、もう一つが「決断すること」であります。


例えば、国会議員でありながら、選挙で勝つために、あるいは人気とりのために、特定の団体等に肩入れする「○○族」と言われるような立場になった政治家は、すでに国会議員としての職務を放棄しているのではないかということです。

一方、「決断すること」という視点においては、話題に事欠かないようです。


ただ、あくまで個人的な意見ですが、また最近ふと思っただけのことなのですが、「政治家とは何か」という質問に対して、もう一つ大切な視点があるような気がしてきました。


以前、ある人から「社員は経営者の鏡である」という言葉があることを教えていただきました。「うちの社員は優秀な者が全然いない」と嘆く社長に対する戒めとして、「社員はあなた自身を映す鏡なのですよ」という意味の言葉だったと思います。そして、鏡と鏡が映し合うように、経営者もまた社員の鏡と言えるのかもしれません。それを認めたくない社員の方は大勢いると思いますが、もちろんすべてではないにせよ、それぞれがそれぞれを映し合う部分があるのかもしれません。


だから、「政治家とは何か」という質問に対しても、同じようなことが言えるのではないかと思います。「日本は、政治は三流」と言われているように、日本の政治家が自分自身の姿を映す鏡とは絶対に思いたくない日本人はたくさんいると思います。しかしながら、もちろんすべてではないにせよ、どこかしら自分自身の姿を映す鏡の役割を担っている部分もあるのではないか、という気がしてきました。


つまり、「今の政治家はなっていない」ということは、ひょっとしたら「今の自分はなっていない」という部分を、どこかで映し出しているのかもしれないと思う視点を持つことも大切だというような気がしてきたのですが、いかがでしょうか。