落ち込んだときこそ!

最近、自己嫌悪に陥ってしまうことがありました。未だしっかりできない自分に苛立ち、自然と気持ちが沈んでいきます。まさに「落ち込む」「へこむ」といった状態でした。


「苦しいときほど笑ってみろ」という言葉に背中を押され、気持ちが沈みそうになったら意識して笑顔をつくるように心掛けています。でも、よくよく考えてみると、この言葉は「苦しいときこそ笑うべき」ということであって、「落ち込んだとき」「へこんだとき」「自己嫌悪に陥ったとき」とは言っていません。この言葉の真意は、「普段からしっかり生きているという自信があるのなら、苦しい状態のときこそ笑ってみろ」ということにあるような気がします。


逆に言うと、自己嫌悪に陥るときには、その原因から目を背けるように「笑う」ことよりも、自然と気持ちが沈んでいく「生理現象」の意味について一度深く向き合うべきではないか、ひょっとしたら、このような「生理現象」には深い意味があるのではないか、という気がしてきました。


私自身、「落ち込む」「へこむ」「自己嫌悪に陥る」といったときには、必ず回りのものが見えにくくなり、自然と自分自身と向き合う状態に入っています。「なんで自分ってこんなに駄目なんだろう」「いい歳して、なんで何も成し遂げることができないんだろう」といったように、いつの間にか自分自身と対話している状態になっているわけです。


「自分と向き合う」ときには、表面的な自分だけでなく、その奥深くにある自分とも向き合うことが大切だと思います。つまり、「自分が!」「自分が!」「自分が!」という小さなエゴの硬くて厚い表面の層を打ち砕き、もっともっと奥深い層(鉱脈)に向けて掘り進む作業が必要だと思います。表面の硬くて厚い小さなエゴの層は、やがては「自分と自分以外が曖昧になる」という層になり、さらには(クリシュナムルティ風に言うところの)「自分は世界であり、世界は自分である」という途轍もなく広くて深い層に入っていくのでしょうか。ここまでくると、その層(鉱脈)の意味はよくわからないし、逆に簡単にわかってしまうような「薄っぺらな世界」であってほしいとも思いません。


小さなエゴの硬い岩盤を打ち砕いていくと、「自然と気持ちが沈むことには深い意味がある」という確信が湧いてきます。私は今回、自己嫌悪に陥ることで、(今の自分なりの)自分の深い層(鉱脈)に触れる機会を得ることができました。そして、いつの間にか自然と「やる気」が湧いてきて、「駄目な自分だからこそ、一道を切り開いていくことの意義は大きい!」という気になってきました。そうして、「生理現象」として自然と気持ちが沈んでいたはずなのに、いつの間にか逆に気持ちが高揚している自分に気づかされます。


「落ち込んだときこそ、自分を掘り起こしてみろ」ということでしょうか。