善人と悪人

「善人」と「悪人」を分ける定義には、いろいろなものがあると思います。一般的な感覚で言うと、「結果」もしくは「行動」で分けることが多いのではないでしょうか。犯罪を犯した人は「悪人」とされますし、私利私欲に引っ張られることなく他人のために尽くす人は「善人」とされます。「結果」や「行動」は目に見えるものですし、周りの人にも影響を及ぼしますので、「結果」や「行動」を基準としてわけることが一番わかりやすいし、一番浸透しているものであると想定されます。


また、実際に「行動」にうつさなくても、人の悪口ばかり言っている人のことを「悪人」とし、人のことを愛情を持って語っている人のことを「善人」とする基準があるかもしれません。あるいは、言葉にしなくても、人のことを悪く思ってばかりいる人のことを「悪人」とし、人のことを愛情を持って思っている人のことを「善人」とする基準もあるかもしれません。


親鸞の「歎異抄」にある「善人尚もて往生をとぐ いわんや悪人をや」という言葉について、最近ふっと感じたことがありました。今までこの意味を深く考えたことはなかったのですが、最近反省する機会があり、不意にこの言葉を思い出したときのことです。親鸞の言っていた「善人」と「悪人」は、上記のような「自分が他人に対してどうであるか」という基準ではなく、あくまで「自分が自分に対してどうであるか」という基準に立って語っているのではないだろうかと、そのとき感じました。


確かに「自分が他人に対してどうであるか」という基準は、直接他人に影響を及ぼすことですので非常に重要ですが、親鸞はそれと同じか、あるいはそれ以上に重要な基準として、「自分が自分に対してどうであるか」を掲げていたのではないか、と思いました(もちろん、あくまで今の自分の考えに過ぎません)。


「自分が自分に対してどうであるか」という基準に立った場合、「善人」と「悪人」をわけるのは、「罪」を犯そうとする気持ちがあるか、あるいは人のためによきことをしようとする気持ちがあるか、といったことよりも、自分自身をプラス方向で捉える傾向にあるのか、あるいはマイナス方向で捉える傾向にあるのか、ということに重点が置かれているような気がします。簡単に言うと、自分のことを自慢する傾向にあるのか、自分のことを卑下する傾向にあるのか、ということではないでしょうか。


「最近、反省する機会があった」と言いましたが、実際のところは「ホント、自分はアカンなあ〜」と落ち込みそうになった機会があったと言ったほうが正確です。そのとき、「善人尚もて往生をとぐ いわんや悪人をや」という言葉を思い出しました。ひょっとしたら、「自分はアカンなあ〜」と思えたときこそ、飛躍し成長する大きなチャンスではないか、という気がしてきました。


自分をマイナス志向で捉えたときには、やがて飛躍し成長するための必要な時機と考え、知らず知らずプラス志向で生きていける原動力に変えていきたいと思います。