心が入ってこない

先日読んだ本に、おもしろいことが書いてありました。ずっと入院しているお年寄りが、「検診などで定期的に様子を見に来る看護師の中には、事務的に病室に入ってはくるものの、心は病室の外に置いたままの人と、心まで病室の中に入ってきて、朗らかな気分にさせてくれる人がいる」と言っていたそうです。これは看護師だけの話ではなく、さまざまな仕事の場面に当てはまることだと思います。


最近、自分自身がどんどん「おっさん化」しているからなのでしょうか、ちょっとしたことでついつい注意したくなることがあります。たとえば、コンビニのレジ店員が商品をバーコードに通したあと、カウンターの脇に「放り投げる」人がいました。私にはドサッと放り投げているとしか見えなかったのですが、おそらくそのレジ店員からすれば、その後レジ袋に手際よく商品を入れるための時間短縮として、自分にとって都合のよい場所に「置いている」だけなのでしょう。だから、もちろんレジ店員にも言い分はあるのでしょうが、問題は「どのような心で」その作業をしているか、にあると思います。


また、電話応対で、明らかに早く電話を終わらせたいことが伝わってきて、こちらの気分を不快にさせる人がいました。その人からすれば、私の電話を切った後も、きっとたくさんの人に電話をかけなければならず、あるいは他の仕事が溜まっていて、私ひとりのためにあまり時間を割くことはできないのでしょう。だから、そのような応対になってしまうのは仕方のないことなのかもしれません。でも、やっぱり問題は「どのような心で」その作業をしているか、にあると思います。


「どのような心で」その仕事をしているか。それは、まさに「心が入っている」か、「心が入っていない」か、の違いにあると思います。「心が入っている」とは、打算を超越して相手のことを思い遣る気持ちでその仕事に取り組んでいるということでしょうし、「心が入っていない」とは、自分勝手な心で相手を思い遣る余裕を持たないままにその仕事に取り組んでいることを指すのでしょう。


そして、どんなに優れた教育プログラムでも、この部分については、きっと強引に改善することは不可能だと思います。「心」は、本人しか変えることはできませんし、本人自身も「心」に振り回されていると思うからです。


でも、だからこそ、一人ひとりは「尊い存在」だとも言えるのでしょうね。自分自身、人のことをとやかく言える立場にありません。ついつい「自分勝手な心」で誰かと向き合い、知らず知らず不快なウイルスを撒き散らしていることを反省しなければなりません。あるいはまた、「自分勝手な心」で仕事に取り組んだばかりに、相手の望むものを提供できなかったことを反省する必要があります。自分でもコントロールできない「心」ではあるものの、それでも「どのような心で」仕事に取り組むか。そのことについて、決して疎かにしないように、仕事に取り組んでいきたいと思います。