意味を感じるか感じないか

先日、たまたま見ていたテレビ番組が面白かったので、ついつい引き込まれていきました。


「私たちはときどき、奇妙な『偶然の一致』に遭遇することがあります。それらの出来事に遭遇すると、何か大きな意味があるのではないかと感じますが、実は確率論的見地から言うと、それほど不思議なことではありません。私たちは無意識に、大量の『一致しないこと』を切り捨て、その中から少数の『一致すること』だけを感じ取る能力があるわけです。それに対する見方はさまざまでしょうが、確率論から言えば、起こるべくして起こっている『偶然の一致』に過ぎないわけです」


確かにそうなのかもしれません。わかりやすい例が、時計の時刻ではないでしょうか。私たちは時計があると、無意識に何度も見ているはずです。特にデジタル時計の場合、「1:11」や「2:22」のように、同じ数字が並んでいるとハッとしますが、「1:32」や「2:53」などのように、(自分にとって)意味のない数字の時刻だと、一目見て無意識に切り捨てているだけなのかもしれません。そしてそのようなことを、日常生活においても無意識に行っているのかもしれません。


しかしながら、やっぱり重要なポイントは、私たちには「偶然の一致」を感じ取る能力があるということではないでしょうか。日常生活の中で、無意識に大量の「一致しないこと」を切り捨てているような状況の中、ふっと「一致すること」を感じ取る物事には、その人にとって何らかの「意味」があるはずです。そして、そのような「一致すること」に私たちは引っ張られ、生活しているような気がします。


それを「天」と呼んだり「神様」や「仏様」と呼んだりするのかもしれませんが、それらの「意味」をどのように感じ取り、どのように受け止めていくかによって、自分自身がどのように「導かれる」かが決まっていくように感じます。