超一流の人との出会い

自分自身の過去を振り返るとき、今まで何人もの「本当にすごい人」と出会うことができたことは、非常にありがたいことであり、感謝の気持ちでいっぱいです。ダメな自分を、そのときどきで直接的にも間接的にも叱っていただき、ここまで導いていただいたような気がします。現在においては私淑する人がいますし、そういう意味では、自分自身は本当に恵まれた環境で生活していると思います。


「一流のものを見たことがある人は、他のものが一流かどうかがわかるようになる」とよく言われますが、それは例えば絵画や陶芸品、衣服や映画など、さまざまな「もの」に当てはまることなのでしょう。では、「人」に対してはどうなのでしょうか…


最近の私自身の大きな悩みとしては、「超一流の人」を私淑し、その人を基準としていろいろな人を見てしまうがために、他の人に対して、どこかもの足りない気持ちになってしまうということです。「超一流の人」に出会ってしまうと、それだけで自分自身が成長したような気がして、その人を基準として「人の評価」をしてしまっているということでしょうか。


「自分がえらいわけではない、その人がすごいだけ」ということは、表面的な気持ちでは理解しているつもりです。でも、心のどこかで、「超一流の人」を判断基準にして、人を裁いてしまっている自分がいることで、自分で自分を苦しめているような気がします。


例えば英語力であるとかレポート作成能力であるとか、具体的なテーマに限定した能力を比較する場合は、「人の評価」は当然あるべきだと思います。では、全人格において、「人の評価」「人の比較」は可能なのでしょうか。もちろん、仕事をする上で「パーソナリティー」を考慮して「人の選択」をすることは日常茶飯事であると思います。大切なことは、人を選ぶ立場にある人が、「全人格を理解しているわけではない」という謙虚な気持ちを、常に持ち続けることにあるのではないかと思います。


「超一流の人」と出会うことができて、改めてありがたい境遇であることに感謝すると同時に、そのことによる何らかの責務もあるような気がします。「超一流の人」を基準にして、「他人」を「比較」「評価」するのではなく、あくまで「自分」に対する「比較」「評価」でなければならないと思います。そうでなければ、「私淑」が「私淑」ではなくなり、「超一流の人」と出会ったことによる「自慢」から発生する「傲慢」さに結びついてしまうような気がします。


「『超一流の人』に出会ってしまった」者の責務として、自分自身を成長させることに、もっともっと謙虚でなければならないと反省しました。