「私淑」を活かすために

私が大学生だったとき、「恩師を持ちたい」という強烈な思いを持っていた時期がありました。自分自身が不真面目な学生でしたので、自分の中に何も残せずに大学を去ることに対して一抹の寂しさを感じていたのかもしれません。「恩師を持ちたい」「恩師を持ちたい」…と密かに思ってはいたのですが、結局は大学で恩師を持つことはできませんでした。当時は「先生とのいい出会いがなかったなあ」と不運のせいにしていましたが、今思えば「恩師」を持つ資格が当時の自分にはなかったように思います。


その後、社会に出て、「恩師を持ちたい」という思いはすっかり忘れ去っていたのですが、最近ふと「そう言えば大学生のとき、『恩師を持ちたい』と思っていたことがあったな」と思い出しました。それは、今の私には「私淑」する人がいるようになったからかもしれません。もちろん、その人に直接「弟子入り」したわけではありません。「心の中の恩師」「心の中の師匠」といったものでしょうか。しかしながら、「心の中」にそのような人がいる境遇は、非常に恵まれたものであるのと実感します。


「私淑」する人を持ち、その人の語っている言葉をかみしめ、その人の生き方を参考にする。自分自身が大いに迷った時でも、参考にすべき「何か」が自分の中にあるわけですから、それを基準にして考えを進めていくことができます。それは、非常に素晴らしいことですが、「良薬」であればあるほど、副作用が強いのも事実ではないでしょうか。


つまり、「私淑」する人の生き方を参考にする場合、今の自分との差があまりにも大きすぎて、途方に暮れてしまうことがあるということです。仮に今の自分自身が百%の生き方をしているとすると、その「師匠」は千%の生き方、万%の生き方をされているわけですから、とてもじゃないけど「活かし切れない」と思えてきます。百%の能力しかない人間に、いきなり千%の仕事を与えるようなものではないでしょうか。誰にも助けを求めることができないとして、自分の能力の十倍もの仕事を任せられたら、やむを得ずあきらめるか、自分のレベルに落とし込んで適当にごまかすくらいしか方法はないと思います。


だからこそ、「どのように生かすか」ということをもっと真剣に考えておく必要があると思いました。おそらく、その人の生き方や考え方そのものを真似しようとすることに無理があるのかもしれません。自分自身の目の前の仕事なり生活において、自分なりに真剣に取り組んでいく中で、いつの間にかその人の考え方や生き方が染み込んでくるようにすることこそ、「私淑を活かす」ということになるような気がします。


何もかも真似することは、不可能です。自分の目の前の出来事において、「今の自分」なりに真剣に取り組めば取り組むほど、自然と「私淑の力」が湧き上がってくる。意識せずとも、自然と力が湧いてくる。それこそが、「私淑」の持つ本当の力のような気がします。