仕事を通した願い

最近、しばしば感じていることは「年を取るのも、悪くない」ということです。体力の衰えを感じることは確かにありますが、健康体である限り、絶妙なバランス感覚が芽生えてくるような気がしています。


具体的、かつ、正直に言うと、さまざまな欲望が抑えられていくことによって、見えてくるものがあるということです。例えば、仕事に対する考え方がかなり変わってきたように思います。


若いころは、自分自身の欲望を満たすために、「いかに仕事を利用するか」ということばかりに囚われていたような気がします。モテない自分、イケていない自分が幸せをつかむために、「仕事を通して経済力を高め、それをアピールしたい」だとか、「仕事を通して、自分も有名人になりたい」といったように、自分自身の欲望、自分自身の小さなエゴに振り回されて、欲望を満たすために仕事をしていたところがありました。言い換えれば、「仕事を通して、いかに自分自身に還元していくか」ばかりに気持ちが縛られていたように思います。


最近、さまざまな欲望が衰えてきたように感じます。また、昔の同級生が病気で亡くなったといった話を聞くにつれ、「自分自身の残り時間」が具体的なイメージを伴って迫ってくるのを感じます。


そのような背景があるためか、最近、「自分自身の残り時間」を有意義なものにしたいという願望が強まっています。そこで、百メートル走競技をヒントにしようとしています。百メートル走競技は、百メートルのラインで走るのを終えてしまえば、確実にタイムが悪くなることから、百メートルよりもさらに数十メートル先まで全力で走る必要があります。そのことから、「自分自身の残り時間」を有意義なものにしていくためには、自分自身が生きている未来だけを考慮に入れるのではなく、自分自身が存在しなくなった未来も考慮に入れて行動していく必要があるのではないかと考えています。


自分自身が生きている未来だけをイメージすれば、どうしても自分自身のエゴに振り回されそうですが、自分自身がいなくなった未来をイメージすると、仕事を通して、祈りのようなもの、願いのようなものを託していきたい気持ちが芽生えてきます。自分自身が存在しない未来が、「ああ、この未来を、自分も生きてみたかった」と思えるような未来にしたいと思えてきます。そのためのささやかな祈り、ささやかな願いを持って、仕事に取り組んでいこうと思えるようになります。


もちろん、だからといって、社会的にインパクトのある仕事、多くの人に影響力を与える仕事が急にできるほど、甘いものではありません。だからこそ、目の前の仕事を通して、そのような願いを持つことができれば、「自分自身の残り時間」を、悔いなく使い切ることができるようになるのではないかと考え始めています。