2012年1月1日、正月気分を満喫しているときに地震が発生しました。
私自身、たいして努力しているわけではないのに、正月気分だけは人並みに味わいたいとのんびりしていたときでした。やっぱり何か意味があるように感じました。改めて、下記内容を一日本人として、正面から向き合っていくべきことを痛感しました。
福島原発問題は何なのか。これからの福島原発問題は、どのような問題を投げかけていくのか。私自身、技術的なことは全くの素人ですので、その点ではいろいろな情報を咀嚼するしかないのですが、これを感情的・心情的な問題として捉えるとするなら、実は福島原発問題は、私たちのエゴの問題でもあるように感じます。
「小さなエゴ」が、福島原発事故を起こすべくして起こしたような気がします。そして、今後の福島原発処理の問題が、今の私たち、そして将来の私たちに、「小さなエゴとの格闘」を投げかけ続けるのではないかと思います。言い換えれば、「人として小さな器で留まるかどうかの格闘」ということでしょうか。これは持って生まれた素養もあるでしょうから、非常に厳しく困難な問題であり続けると思います。大切なことは、それでも自分自身の課題として、生涯持ち続けることにあると思います。
「小さなエゴ」とは何か。自分は他人よりもよくありたい、自分を守りたい、自分を…自分が…。自分と自分の周りを大切にし、それを守ろうとするあまり、視野狭窄に陥り、想像力を少しだけ働かせれば見えてくるものから、いつまでも目を背け続けるようなエゴではないかと思います。
もちろん、自分自身も猛省しなければなりません。自分が一番大切ですし、自分さえ…と思うことが日常茶飯事です。ある意味では、それは生きている限り、生理的・現実的な志向なのかもしれません。しかしながら、これから何十年(あるいは何百年?)と続いていく福島原発問題は、この根源的な問題を私たちに投げかけ続けるような気がします。
これから私たちは、「小さなエゴ」とどのように向き合い、どのように克服していくべきなのか。生きている限り、エゴをなくすことはできません。そうであるとするなら、もっともっと想像力を広げ、より大きなエゴへ向かうような文化を築き上げていくことが求められているような気がします。
「大きなエゴ」とは、もっともっと自分がお金持ちになりたいとか、もっともっと自分の権力を高めたいというような「自分に根差したエゴ」ではありません。自分も含めたより大きな社会・世界を少しでもよくしていくために、よりよい生き方、よりよい選択をしていくことにあると思います。福島原発問題は、そのことの重要性を投げかけているように改めて思いました。