ただ為すべきことを

論語の中に、(先生である)孔子をはじめ、それぞれが自分の理想を語り合う場面があるそうです。ある人は、次のように語ります。

「私は、私が出世して馬車に乗ったり高価な着物を着たりする身分になっても、友人とともにそれに乗り、友人とともにそれを着て、たとえ友人がそれらを傷つけても、うらむことのないようにしたいと思います」

また、別の人は、次のように語ります。

「私は、善に誇らず、労を誇示せず、自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやってみたいと思うだけです」


最後に、孔子の理想を聞かれたので、彼は次のように語ります。

「私は、老人たちの心を安らかにしたい、友人とは信をもって交わりたい、年少者には親しまれたいと、ただそれを願っているだけだ」


孔子のその言葉を聞いて、「善に誇らず、労を誇示せず」と答えた人は、自分が未だ「自分」というものに捉われていることに気づき、愕然としてしまいます。

「先生は老人と友人と年少者とのことだけを考えている。確かに私たちの周りには、老人と友人と年少者とがいる。人間は、この現実に対して、ただ為すべきことを為していけばいいのだ。自分に捉われないところに、誇るも誇示するもないではないか」


論語のすごさというものは、このように「孔子の教え」にあるだけでなく、その「教えをいかに理解するか」ということにもあるのでしょうか。「一を聞いて十を知る」という言葉があるように、日々謙虚な姿勢が欠かせないようです。


反省、また反省です。