物語を紡ぎ出す能力

私が羽生永世七冠の存在を初めて知ったのは、中学校に入学する頃でした。当時、私は将棋のプロ棋士になることを夢見ていたのですが、中学校に入ってスポーツのクラブ活動をしたいし、いろいろな友達がほしいし、視野を広げたいということもあって、小さな盤面に集中する将棋に対して、徐々に情熱が薄れていた頃でした。


立ち寄った書店で、将棋の月刊誌をパラパラと立ち読みしたとき、「羽生少年」の記事を発見しました。中学生の「羽生少年」は、すでにトップ棋士に対して二枚落ち(飛車角抜き)で堂々とした差し回しを披露し、トップ棋士を翻弄して見事に勝利したという記事が掲載されていました。


当時の私は、アマ5段に対して、六枚落ちで勝てるかどうか程度だったと思います。同世代で、全く話にならないほど強い人が存在していることを理解し、「将棋はやめよう」と、きっぱりと決断した瞬間でした。


その後、羽生さんが七冠を独占して大きなニュースになったときは、もちろんすぐに「あのときの羽生少年だ!」ということを理解しました。将棋をやめようと決断した日のことを今でも覚えていられるのは、そのきっかけが「羽生少年」だったからだと思います。そこに掲載されていた少年が、別の誰かで、プロ棋士にならずに将棋をやめていた「少年」であったとすれば、「そういえば、どうして将棋を止めようと決断したのだったかなあ」と、今でも不思議に思っていたかもしれません。


羽生さんからすれば、全くの赤の他人だし、「勝手に人生に組み込んでくれるな」と言いたいところかもしれませんが、私に限らず、誰でも自分自身の人生を、意味あるものにしたいという欲望を持っているのではないかと思います。


それは、有名人に限りません。例えば、知人の経営している会社が上場したとすれば、「あの上場企業の社長は、あの頃、どんな感じだったかなあ」と思い出そうとしている自分自身がいました。そうして、意識的にも、無意識的にも、平凡だったはずの自分自身の人生に彩りを与えようと努めている自分がいたように思います。「何もない」から、「何かがある」に変えていくことは、そうした意識の働きによるものなのかもしれません。


余談ですが、「羽生少年」を今でも鮮明に覚えているのは、中学校に入学する頃の私が「羽生」という苗字をどのように読めばよいか全くわからなかったことも影響していると思います。「ハブ」か「ハニュウ」か、というレベルではなく、「ハネイキ?」「ハイキ?」「ハネセイ?」といったレベルだったと思います。そのモヤモヤ感も、「羽生少年」を記憶に留め続けることに貢献してくれたのかもしれません。