志の目的と手段

「人事百般、すべて遜譲(そんじょう)なるを要す。ただ、志(こころざし)はすなわち師に譲らずして可なり。また、古人に譲らずして可なり」


最近読んだ本の中に書いてあった言葉です。世の中のことは、すべてへりくだり、謙虚に対処していくべきですが、「志(こころざし)」だけは別格で、師であっても、また古人に対してさえも「譲る必要はない」ということです。


それでは、そのように別格扱いされる「志」とは、何を目的としているのでしょうか。


それはやっぱり、「よりよい未来」にあると思います。大きな心で、大きな度量で、「よりよい未来」を創造することにあると思います。


それでは、その「未来」は、どのくらい先のことを指すのでしょうか。


個人的な意見としては、「自分のいなくなった未来」を指すべきではないかと思います。「自分のいる未来」を「よりよい未来」にしようとすると、どうしても自分の小さなエゴに引っ張られてしまいそうです。そうならないためにも、やっぱり「自分のいなくなった未来」を、いかに「よりよい未来」にしていくか、それを実現しようとすることに、「志」の価値があるのではないかと思います。


そこまで考えてみて、思わずため息を漏らしてしまいます。「こんな自分に、『志』など不釣り合いではないか」と思ってしまいます。正直な自分の姿は、小さなエゴに振り回されていますし、「苦しい」「悲しい」「寂しい」と、何かと愚痴を言いたくなることがしばしばです。


でも、ある先生が、次のように話していました。


「『志』の究極の目的とは何か。それは、『志』を携えて生きる人の今を、『よりよい今』にしていく手段に他ならない」


「陰極まれば陽、陽極まれば陰」という言葉があるように、「目的」と突き詰めていくと、究極の「手段」に突き当たるようです。確かに、こんな自分が「自分のいなくなった未来」を「よりよい未来」にしていこうと考えることなど、笑止千万と思わないこともありません。でも、「一隅を照らす」という言葉もあるように、自分には自分なりに、何等かの役割があるはずです。


また、自分が携えるべき「志」もあるはずです。「自分のいなくなった未来」を、「よりよい未来」にしていくだけでなく、「自分のいる今」を、「よりよい今」にしていくために。