自分の中の悪と善

「『極悪人』や『悪党』という言葉がある一方で、『極善人』や『善党』という言葉はないことからも、『悪』のほうが力強いことがわかる」


最近読んだ本の中に、このようなことが書いてありました。この言葉の主旨は、「誰々は『悪人』で力強く、誰々は『善人』であるが故に力弱い」ということを意味しているのではないように感じます。


その言葉の本当の意味は、自分の中の『悪』と『善』を理解するためにあるのではないかと思います。自分の中に『悪』の感情があり、また『善』の感情もある。それらが、明確に区切られることなく、モヤモヤとして自分の中に存在している。そして、自分が触れる何かによって、『悪』の方向性は力強く自分に影響し、『善』の方向性は力弱く自分に影響する傾向にあることを意味するのではないでしょうか。


例えば、「共感できる意見」と「反発を覚える意見」に自分が触れることをイメージしてみます。何かの記事で「共感できる意見」に触れた際、そのときは「なるほど」と思うかもしれませんが、あまり自分の中に強い印象をもたらすことなく忘れてしまうことが往々にしてあるように思います。


一方で、「反発を覚える意見」に触れると、どちらかというと自分の中に強い印象をもたらし、反対意見を表明するために何らかの行動を起こしたくなるような気がします。


もちろん、「共感できる意見」が「善」であり、「反発を覚える意見」が「悪」というわけではありません。ただ自分自身、「マイナスの方向性」は自分に力強く影響を与え、「プラスの方向性」はどちらかというと自分に力弱く影響する傾向にあることを、しっかり認識しておく必要がありそうです。


その上で、自分自分、「善行」に取り組むことには大きな壁があり、「悪行」をやらかしてしまうのは少し気を緩めた瞬間に起こり得る存在であることを、十分に認識しておかなければなりません。


そして、そのような傾向を修正していくために、日々鍛錬していく必要があると思いました。