究極の目標

最近、ある先生から、以下のようなお話を聞きました。

「私たちは、『志』を持って生きることが大切だと言われます。そして、『志』こそ、人生における最も大切な『目標』だと考えます。でも、本当に深く捉えようとするならば、『志』は『目標』ではなく、『手段』なのです。何の手段かと言えば、『今を生きる』ための手段なのです」


このような発想は、今までの私には全くありませんでした。「志」を神聖なものとして捉え、そのために思考停止に陥っていた部分が大きかったように感じます。もちろん、その内容や動機が純粋なものであるならば、「志」が大切なものであることに変わりはないと思います。ただ、「究極の目標は何なのか」ということを、今まで自問自答することがなかったと反省します。


「究極の目標は、『今を生きる』ことではないか」ということでしょうか。確かに、過去や未来から何かを参考にすることはあっても、私たちは「今」しか生きることができません。そして、生きている間は、いつも「今」しかないということでした。


「今を生きる」ということを自分なりに捉えるならば、「志」などに沿って「行動すること」が非常に重要であると思います。充実した「今」を創造していくためには、行動を伴うことが欠かせません。私は自分自身を弱く感じることが多いので、自信を持って「今を生きている」と言えることはそんなに多くありません。でも、自分自身を卑下することは、自分以外の存在に対しても非常に失礼なことではないか、と最近思うようになってきました。

自分は自分のものと思ってみても、自分で自分を創造したわけではありません。自分自身の究極の姿は、「与えられた存在」ではないかとも思います。


弱い自分をなくすことはできないようですが、弱い自分から目を背けることなく、自信を持って「今を生きている」と言える今日であるように、しっかりしていきたいと思います。