蓮の花

「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉があるそうです。イメージとしての「蓮の花」は、濁った泥水のようなところに根を張り、泥水のような濁りを栄養素として、泥水の上にきれいな花を咲かせます。そしてそのようなイメージは、実際の日常生活でも当てはまることがあるのではないかと最近になって思います。


「今の状況は、できれば知っている人には見られたくないなあ」と思うことがあります。具体的に言うと、毎日同じような服を着て、毎日同じようなものを細々と食べているような状況です。あるいは、精神的に打ちのめされて、自分の周りに大きな「見えない壁」をつくってしまうような状況です。


このようなときの自分の姿は人に見られたくないし、できる限り自分の存在を消してしまいたくなります。また、極力回りを見ないように俯き加減で生活していることに気づきます。でも、よくよく反省してみると、このようなときこそ、目の前に「蓮の花」が現れやすいのではないかという気がします。


随分と前の話になりますが、大学受験に失敗した私は、神戸・三宮の予備校に一年間通っていました。親戚の家に居候していた立場上、できる限り自分の存在を消して粛々と受験勉強に励もうとしていました。

浪人生活で両親や親戚に迷惑をかけていたし、そもそもあまりお金を持っていなかった私は、予備校での昼食は三宮駅構内の小さな立ちそば屋でとることがほとんどでした。一人で店の中に入り、一番安い素うどんばかりを注文していました。あまり人に見られたくなかったので、自分の存在を消すように素うどんを食べていた記憶があります。


券売機で素うどんのチケットを買い、いつもいるお店のおばさんに渡します。私はいつも素うどんのチケットしか差し出さなかったのですが、いつの頃からか、そのチケットは別の豪華なメニューとなって私の前に差し戻されるようになりました。うどんの中に卵が入っている日があったり、天ぷらがのっている日があったりしました。


当時の私はできるだけ自分の姿を隠してしまいたいと思っていたためか、正直なところ、「余計なことをしてくれるな」という思いがありました。そのためか、そのおばさんに一度も素直に「ありがとう」を言うことができないまま、神戸を離れてしまいました。


苦しい時期にさしかかって自分の姿を消してしまいたくなったとき、負い目を感じて回りを見ないよう俯き加減になったとき、そういうときこそしっかりと前を向き、回りの姿から目を逸らさないようにしていきたいと思います。そして、その中から「蓮の花」を見つけ、素直にその存在を喜び、感謝できる人間になりたいと思います。