京(けい)の世界

現在、世界中の株式時価総額は約1万兆円、つまり約1京円ということです。

 

今までは「兆」の単位までしか目にすることはなかったのですが、いよいよ「京」という単位も馴染んでいくことを求められているようです。

 

今後、世界を表す上で「京」のさらに先を行く単位まで必要になっていくのでしょうか。ちなみにネット検索したところ、「京」の次の単位は「垓(がい)」、その次の単位は「𥝱(じょ)」でした。ここまできてしまうと、単位を表す漢字自体に馴染みがありません。

 

さらに単位を進めていくと「不可思議(ふかしぎ)」という単位まであります。将来、漢字一文字では表せない数値の単位まで必要になれば、おそらくそのときには「数値の単位見直し法案」が出されることでしょう。

 

そのときには私は確実に生きていないでしょうが、日本がより良い国になっていること、日本語が引き続き使用されていることを草葉の陰から願いたいと思います。

頭の中のCPU

先日、将棋のプロ棋士藤井聡太二冠の何がすごいのかを解説している動画を見たのですが、非常にわかりやすい内容でした。

 

藤井二冠はよく「ジェットエンジンを搭載している」と例えられますが、つまり計算速度が全く異なるということでした。

 

例えば、平均的な実力のプロ棋士がある局面で五つの候補手があると想定し、それぞれ十手先まで読んで最善手を選択する場合、藤井二冠は同じ時間でそれぞれの手を十五手先まで読み最善手を選択する、場合によっては候補手を五手ではなく七手も八手もあると考え、それぞれの手を同じように読んでいるのかもしれない、ということでした。

 

まさに頭の中のCPUが異次元のものだということでした。藤井二冠が詰将棋を考えるとき、「将棋の盤が頭の中にあるわけではない」というコメントを残しているそうですが、これなどは少なくとも私には全く想像できない領域です。

 

今後もますます藤井二冠から目が離せそうにありません。

操作主義の読解力

「操作主義」が世の中に蔓延っています。「操作主義」とは、他人やある特定集団、あるいは世論といったものを、自分や自分たちの意に沿うように操ろうとすること、だと思われます。

 

最近はSNSが生活の中にかなり浸透していますが、例えば一定数の仲間を集めることができればツイッターのトレンド入りを作り上げることもできるようです。

 

このような世の中であると認識しつつ、私たち個々が取り組むべきことは、自分自身をしっかりと見つめ、「騙されない」冷静さを持ち、「安易に流されない」ための思想や哲学を持つことです。

 

これはなかなか簡単なことではありません。例えば、自分の気に入っている有名人がある意見を言うと、何も考えずにその意見に同意してしまうことは多々ありますし、印象操作されたニュースを知らず知らずのうちに信じてしまっているかもしれません。

 

すべてを疑い始めたらキリがありませんし、精神的にかなり疲れてしまいます。まずは「操作主義が蔓延っている」ということを認識し、自分の中ですぐに咀嚼できないことに対しては一旦棚上げしておく、という余裕も大切なのでしょう。

 

その上で何らかの気づきを得たとき、少しずつ自分自身の思想や哲学を積み上げていくべきなのだろうと思います。

さよなら、夏の日

今日は8月最後の日です。危険な猛暑日が続き、とても風流な気分を味わう余裕はありませんが、せいぜい冷房の効いた室内で夏の歌を聴いて少しだけ夏の気分を楽しみました。

 

今年の8月の出来事で、個人的に関心が高かったことは藤井聡太七段(当時)の二冠獲得です。殺人予告の連絡があるなどして精神的にも大変な時期だったと思いますが、二つのタイトル戦を7勝1敗で切り抜けたのは見事としか言いようがありません。

 

元大リーガーの松井秀喜氏が「自分自分でコントロールできないことは、あまり気にしないようにしている」と言っていましたが、どの分野においても超一流の地位に登り詰める人は何か共通するものがあるのかもしれません。

 

他人の行動をコントロールすることはできません。だからあまりそのことは気にせず、自らがコントロールできる自分自身と向き合うことに集中する。そのような精神力を確立してはじめて超一流に登り詰めていくことができるのでしょうか。

 

藤井二冠と比較するまでもなく、私自身の精神力の弱さを恨みたくもなりますが、それでも私はそんな自分自身と一生やり繰りしていくしかできません。自分自身とうまく付き合いながら、遅々とした歩みであっても常に成長することを目指していきたいと思います。

飛行機からの夜景

飛行機に乗るときは、できるだけ空から見える景色を楽しむようにしています。

 

夜の便はほとんど真っ暗であまり楽しむことはできませんが、それでもときどき綺麗な街の灯りに遭遇することがあります。

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秘密

最近、谷崎潤一郎の「秘密」という小説を読んだのですが、非常に面白く、短編ということもあって一気に読み終えました。特に中高年世代に響く内容になっているのではないかと思います。

 

主人公が女装することや、最後に主人公が「血だらけな歓楽」を求める気持ちを理解することはできませんが、文章自体が綺麗で、趣のある日本語だと思いました。

 

雑然とした街中にこそひっそりと身を隠すのに最適な場所を見つけるというところ、長く東京に住んでいながら通ったことのない道のほうが(はるかに)多いことを認識するところ、普段何気なく通っている道でも一本奥に入ってみると全く知らない世界が存在することを認識するところ、などが特に共感しました。

 

そして、あることを知ってしまったために興醒めしてしまうこともあることを理解できます。劇的な変化を望むわけではなく、ちょっとした工夫に喜びを見出し、何かをきっかけに興醒めしつつも、またちょっとした工夫を通して喜びを見出していこうとする気持ちに共感しました。

星々の悲しみ

30年以上前になりますが、私が高校生だったときに民間企業による大学受験の模擬試験で、国語の現代文の問題に宮本輝氏の「星々の悲しみ」が採用されていました。

 

問題を解くために本文を初めて読んだとき、「いい小説だなあ」と感動してしまい、問題を解くことを忘れてしまうほどでした。

 

そのことを思い出し、最近久しぶりに「星々の悲しみ」を読んだのですが、あのときの純粋な感動を味わうことはできませんでした。何故なのでしょうか。

 

この作品では、大学受験生が喫茶店に飾られた絵画を盗み出し、また元に戻すという出来事を通して、繊細な心の動きが描かれています。今の私は、その繊細さが心の奥のほうに押しやられ、鈍感さを持って今を生きているように感じました。

 

心を繊細に動かす原動力として、この作品では異性に対する漠然とした憧れ、友人の死を知らされることに対する喪失感があるかと思います。まず異性に対する憧れですが、五十歳近いおじさんが(今でも「それは無い」と言えば嘘になりますが)「それ、わかる!わかる!」と盛り上がってしまうのはいろいろな意味で興醒めなことと言えるでしょう。

 

友人をはじめとする知人の死については、何歳になっても悲しい気持ちに変わりはありません。むしろ歳をとればとるほど体力だけでなく、忍耐力も弱まってきている気がしなくもありません。

 

そのようなことから、人生の後半戦を生きていくための知恵として、いつの間にか鈍感になっていることが多いように感じます。

 

だからこそ、いい意味で鈍感となりつつも、覚悟を持って残された時間を有意義に使っていきたいと思いました。