「評価」に対する変化

10年ほど前に出版された(アメリカの)評論家の本の中で、スティーブ・ジョブズに対する評価が、次のように書いてありました。

スティーブ・ジョブズの頑固さが仇となり、急激に変化しているビジネス環境に対応できなくなった結果、アップル社を壊滅的な状況に追い込んでしまった」


もちろん、この評論を書いた人を皮肉っているわけではありません。10年ほど前のその時期、スティーブ・ジョブズに対する世間の評価は、だいたい上記のようなものだったのではないでしょうか。だからこそ、この本が受け入れられ、日本でも翻訳本が出版されているのだと思います。

問題は、「急激に変化しているビジネス環境」を認識している評論家でさえ、全く予測できないほどの強烈な変化が、今の世の中で進行している、ということではないでしょうか。その10年後、時価総額でアップル社がマイクロソフト社を追い抜くと想像できた人が、果たして何人くらいいるでしょうか。それはまた、今から10年後においても、誰もが想像のつかないほど強烈な変化が起こり得るということなのかもしれません。


そのような激しい変化が起こっているからこそ、「評価」に対する変化もどんどん進行していくのではないかと思います。「想像もつかない変化」が実際に起こり得る世の中だからこそ、より長期的・大局的な視点に立って「評価」「評論」していかなければ、その出版物の「賞味期限」が非常に短いものになってしまうと考えられるからです。


さらには、情報技術が発達してきたことも、「評価」に対する変化を促していくのではないかと思います。情報のクラウド化の進行により、さまざまな「発信物」が長期保存されていく可能性があります。また、私のように社会に対する影響力がほとんどゼロの人間であっても、自分の考えや思いを「不特定多数」の方に発信することができるようになってきました。このことは、より開かれた意識を私たちに植え付けていくでしょうから、さまざまなリーダーに対して、大局的な視点に立って、決断し、行動するように促す「評価」をしていくのではないかと思います。


100年後の世の中は、私たちの世代をどのように「評価」するのでしょうか。また、私の「発信物」が、(仮に現在の方には届いていなかったとしても、)ひょっとしたら100年後のたった一人の誰かに届くことがあるかもしれません。

そのとき、「ああ、この人は口先だけで、結局は何もしてこなかったんだな」という(みじめな)「評価」を下されないように、私自身、しっかりと生きていきたいと思います(でも、聖人君子にはなれないことをご容赦いただかなければなりませんが…)。