Mr. Master

小さい時からあまりコミック本は読んでこなかったのですが、今まで読んだコミック本の中で一番はまったのは「マスター・キートン」でしょうか。主人公は、どの仕事に取り組んでも、「マスター」として、超一流の能力を発揮します。

例えば、軍隊に入隊したときには、サバイバル教官として「超一流」の能力を発揮します。また、生活の糧を得るために始めた探偵業においても、「超一流」の能力を発揮します。さらには、ずっと憧れを持っていた考古学においても、主人公が著した論文は画期的な内容であったという設定になっています。

まさに、男が憧れる男なのでしょうが、それでもずっとコンプレックスを持っているところに、この物語の面白さがあるのでしょうか。


現実の世界においても、同じような活躍をする人がいるようです。最近でわかりやすい例を挙げるとするなら、水嶋ヒロさんでしょうか。俳優として大成功をおさめたのち、小説家として最初に書き上げた作品がいきなり「大賞」を受賞するというのは、まさにドラマのような人物と言えるのかもしれません。


このように、いろいろな分野で「マスター」と呼称すべき結果を残す人は、何が飛びぬけているのでしょうか。もちろん「能力の差」があるとは思いますが、「先天的な能力」の違いを分析してみても、あまり得るものはないと思います。それよりも、それぞれの分野において、どれくらいの時間や労力をかけて打ち込んでいるのか、どれくらい没頭しているのか、といった「姿勢」こそ見習うべきではないかと思いました。


私自身、何かに挫折した場合、「できない理由」として「先天的な能力」を言い訳に使ってきたこともあったように反省します。目の前の課題に没頭し、一所懸命取り組む前に、弱い自分が出てしまって、目に見えないあやふやなものを言い訳にする傾向があったのではないかと反省します。(ひょっとしたら、そういった「言い訳」を排除するために、「論理志向」をはじめとする「スキル」を重視する経営者が注目されているのかもしれませんね。。。)


そういう意味においては、「マスター」と呼ばれる人は、その生き方・取り組み方にこそ、「マスター」たる由縁があるのかもしれませんね。