100年前からのアドバイス

勝海舟の「氷川清話」に、明治29年に起きた東北の津波および全国的な大洪水について記述されています。


「天災とは言いながら、東北の津波はひどいではないか。政府の役人は、どんなことをして手当をしているのか、法律でござい、規則でございと、いつもやかましく言い立てているくせに、このようなときには口で言うほどに、何事もできないのを、おれは実に歯がゆく思うよ」


何か、今年の出来事を、100年以上前に、すでに予見しているかのようなコメントです。もちろん「政府の役人」と一括りに言っても、今回の大震災に本当に心を痛め、よき日本を再生するために身を粉にして働いている人がいることを信じたいと思います。でも、確かに勝海舟が言っているように、「普段はやかましく言い立てているくせに、いざというときにリーダーシップを発揮しない(できない)のは、いったいどういう了見なのか」とイライラを募らせている状態が、今の日本の「サイレント・マジョリティ」ではないでしょうか。


「おれは悪口を言うわけではないが、こんな博士とか技師とかいう先生らはみんな書物を読んでばかりで肩書きがあるのみ、書物と仕事とはまるで違うものだよ。五年か八年も書物を読めば、誰でも博士や技師ぐらいにはなれるじゃないか。それだから困るというのだよ、どうだ」


全くおっしゃる通りで、すでに100年以上前に現在の日本の姿を予見しているかのようなコメントです。これに関しては、「博士」や「技師」に限らず、どのような立場であれ、「書物」に書かれた知識をたくさん知っている人、あるいはそれを応用した論理思考ができる人が、(それさえできれば)あたかも優れたリーダーのように捉えられがちな風潮があることを反省しなければいけないのかもしれません。


もちろん、これは他人事ではなく、自分自身も猛省すべきことです。「書物」に書いてあるような知識を得て論理思考を磨くことで、「てっとり早く」優秀な人になりたいという安易な気持ちが、自分自身の中に含まれていることを否定することはできません。大切なことは、今年の体験を有耶無耶にすることなく、しっかりと自分の中に取り入れていくことなのでしょう。


まるで勝海舟が、100年以上前に、今の日本人に対してアドバイスを送っているようなコメントがあります。


「昔の人は、今の人のように、人目に見えるようなところに頓着しない。その代わりに誰にも見えない地底へ、いくら力をこめたかしれないよ。昔と今と違うところは、ここだよ」


今回の福島原発問題で、「原発」に関連する「不都合な真実」を隠し、人目に触れるところでは「素晴らしいエネルギー源」という看板を立て続けてきたことが明らかになるにつれて、この勝海舟の言葉の真意がわかってきたような気がします。先日テレビ番組で放送されていましたが、電気料金の明細書に「太陽発電」など、自然エネルギーに関連する明細は(コストが高くつくという意味をこめて)人目に触れるようにし、原発に関連する明細は(天下り団体などへの資金還流を含め、真のコストは高くつくということを隠すために)人目に触れないようにしていたということは、まさに勝海舟が指摘していることを物語っているようなエピソードではないでしょうか。


大切なことは、「人目に触れないことを、いかに潔く、徳を持って行動していくことができるかどうか」であるということを、100年以上前の日本人から教えられました。