自分自身の器量

顔立ちや見た目を意味する「器量」については、年を経るごとにそれほど劣等感を持たなくなっていくようです。私自身、若いときは自分の「見た目」にずいぶんと劣等感を持っていましたが、今はあまり気にしていません。もちろん、歳とともに自分自身の「見た目」がよくなっているということでは全くないわけで、逆にどんどん「おじさん化」しつつあるわけですが、自分自身の中において、自分の「見た目」に対する優先順位が下がっていくため、知らず知らず気にしなくなるというのが実態でしょうか。


一方、心の「器」や心の許容「量」を意味する「器量」について自分自身を反省するとき、その劣等感は日に日に高まっていくような気がします。なかなか自分自身の「心の器」が、大きくなってくれません。言い換えれば、じっと耐えることのできる許容量、いろいろなことを受け止める容量が、未だ狭いままでいることに気づかされます。特別言葉に発したり態度に表したりしなくても、すっと心を切り替えて、自分自身が打ち込むべきことに心を振り向かせることを、なかなかうまく実行することができません。


些細なことでずっと気持ちを引きずってしまったり、ちょっとしたことでイライラしたりすることがしばしばあります。そして、そのことが、本来自分が取り組むべきことから自身を遠ざけているような気がします。すべては自分自身の心の問題なのですが、自分の心でありながら、自分で自分をうまくコントロールすることができません。


ただ、年齢を重ねるごとにうっすらと気づいてくることなのかもしれませんが、そのような心の問題は、「よし、これで解決できたぞ!」という日が、ある日突然やってくるものではないような気がします。生きている限り、ずっといろいろな心の問題を抱えて悪戦苦闘していく中で、一日一日、自分自身の時間をより密度濃く生きていくよう実行できるかどうか、このことがすべてであるような気がします。


もしそうだとしたら、自分で自分をうまくコントロールしようとするのではなく、今日一日をいかに密度濃く生きていくかに対し、一日一日、真剣に取り組んでいける自分でいられるようにしていきたいと思います。